「11年前にディップを設立したとき、私はたった1人でした。しかし、今は皆さんがいる。もう1人ではないですよね」 2008年3月14日、静岡県熱海市で開かれた第12期社員総会の壇上から、私はこう問いかけずにはいられませんでした。嬉し いことに会場からは、大きな拍手と歓声が返ってきました。ホテルの大会場を埋め尽くす600 人の社員の熱狂に、私は感謝の 気持ちで胸が熱くなりました。
1997年3月4日、今から11年前、私はたった1人で会社を立ち上げました。その頃の生活といえば、家族4 人で冷暖房もない 6畳のアパートに住み、その家賃さえも滞るほど。電車代もなかったので、2つ、3つの駅を歩くのは当たり前。営業で東京都内を 歩き回り、靴は2カ月で穴が開いてしまうほどでした。
当時の私にはおカネも社員も人脈もなく、あるのは夢とアイデア、そして情熱だけ。この、Dream、Idea、Passion の頭文字を 取り、「DIP」という社名に込めたのです。
それが今は、たくさんの仲間と喜びをともに分かち合えるまでになったのです。
社員総会は、毎年社員が中心となって会場の予約から当日の運営まで手づくりで進められます。冒頭の熱海での第11 期社 員総会も、開場の直前まで大友常世COO が陣頭に立ち、入念なリハーサルが行われた結果、イベント会社のプロ顔負けの素 晴らしい出来となっていました。皆、この日に備えて、仕事の合間を縫って準備を進めてきたのです。
タキシードとドレスを着た司会進行の男女2 人も、ディップの社員です。11周年を祝う、各サイトのロゴが入った大きなバー スデイケーキもあります。会場は祝賀ムードでいっぱいです。
社員総会では、各事業部の責任者から今期の報告と来期に向けた決意表明が出されます。各人、お気に入りの音楽をバック に登壇。自分たちのボスが出てくるたびに、会場からは歓声がわきおこります。社員たちは、コスプレ、大喜利、コントなど部署対 抗の演し物合戦で盛り上がりました。
歓談の時間に各テーブルをまわり、私は社員1人ひとりに声をかけました。
この日のために、新幹線や飛行機を乗り継いで、横浜、名古屋、大阪、京都、福岡から多くの社員が総会に駆けつけてくれてい ます。このホールのキャパシティは800人。すでに600人以上の社員がいましたから、4月に新入社員が入ってくると、このホー ルも狭くなって使えなくなるかもしれない。そんなこともふと思いました。
私は、新卒採用の面接から立ち会い、研修などのイベントにも可能な限り参加しています。そうすると、内定当時は学生その ものだった顔つきがどんどん社会人のそれに変わってきて、とても頼もしく思えるとともに、大きな可能性を持っているのが見 えてきます。
入社式では、私は次の言葉を祝辞として送りました。
「おめでとう。そして、ありがとう」です。
はじめの"おめでとう"は、新社会人へのお祝いの言葉。次の"ありがとう"には、3つの意味を込めています。
1つ目は、どこの会社でも欲しい優秀な人材であるのに、当社を選んでくれてありがとう、という意味。
2つ目は、皆が来てくれたことで会社が楽しくなることに対して。これには、われわれが新入社員を育てる喜びを与えられるこ とに対する、心からのお礼も込められています。
3つ目は、皆が社会参加することで、日本の社会にとっても心強い人材が増えたことに対する感謝の意味です。
この社員総会の日、私は次なる大きな目標を社員に向けて発表しました。
ディップが目指す次なる目標。それは、当社が「日本の名だたるメジャーカンパニーの一員」になるという新たな夢。「Go Major!」です。
この「Go Major!」というスローガンは私が考えました。
「Major(メジャー)」という言葉にはいろんなキーワードが隠れています。名前を言えば誰もが知っていること。大きいこと。優れ ていること。多数であること。重要であること。将来性があること。優秀な人材が揃っていること......。ディップをそうした言葉で 象徴される企業にしていきたい。
メジャーなプレーヤー(社員)がいて、メジャーなサービスを提供する。ただ有名なだけでなく、社会から尊敬と信頼と高い評 価を集められる企業にしたい。そうした気持ちで、私は社員総会の日、社員全員の前で宣言をしました。皆とならば、それが可能 だと思ったからです。
メジャーカンパニーへの実現に向かって、当社は今、さまざまな施策に取り組んでいます。
プロモーション活動では、プロ野球チーム西武ライオンズのヘルメット広告をはじめ、K-1、中田英寿氏を呼びかけ人とする 「TAKE ACTION!2008」での国際サッカー親善試合、NEC軽井沢72ゴルフトーナメント、パン・パシフィック・テニスなどへの 協賛など、いずれもメジャー級のさまざまなプロモーション施策を実施しています。
一方、自社ブランドのテレビCMも積極的に放映しています。2008 年秋には、人材ビジネスの社会的意義と地球環境をテー マとした初の企業CMも発表しました。
また、東京では渋谷、名古屋では栄、大阪では道頓堀といったそれぞれの1等地に大型看板を設置するとともに、交通広告も 積極的に展開しています。
「Go major!」に込められた願いは単に数字に表れる企業規模だけではありません。メジャーカンパニーと呼ばれるにふさ わしい、従業員満足度No.1の会社にしていくことが大切です。そのために「Major Player's Plan」という新たな人事制度を導 入しました。
お子さんのいる方でも安心して長く働ける「チャイルドケア・サポートプログラム」、自己啓発のための通信教育や、外部のス クールへの通学を支援する「ラーニングサポートプログラム」、社員のボランティア活動を応援する「ボランティア活動サポート プログラム」などがそれです。
こうした制度を利用することで、社員がメジャープレーヤーに成長し、その結果、会社もメジャーカンパニーになることができ ると考えているからです。
また、メジャー級の人材を育成するために、目指すべきプロフェッショナル像を明確にする、「等級制度」や「評価制度」「報酬 制度」を導入しました。これらはすべてガラス張りにして、公平な処遇ができるよう、全員が納得できるものにしようと苦心して つくり上げました。
2004 年5月の上場から4 年。2008年9月で社員数は80人から800人となり、2007年度には実質売上高は100億円を達成するなど、当初の目標をほぼクリアすることができました。
次は、ユーザー、クライアント、パートナー、株主、社員など、私たちのビジネスに関わるすべての人たちに満足してもらえ、社 会貢献できる企業像の追求です。
今、私たちは、あらゆる面においてメジャーを目指しています。しかし、会社設立の頃、私はたった1人。本当に貧乏でアイデア が唯一の財産の起業家でした。次の第2 幕からその悪戦苦闘ぶりを、私の生い立ちも含め、さかのぼってお話ししたいと思い ます。
私の物心がついて最初に覚えている光景。それはその頃住んでいた名古屋市内の公団のアパートで、隣のおばさんが雪で ウサギをつくってくれている光景です。
私は2歳くらいで、おぼろげな記憶として残っています。3歳のとき、父の事業が成功し、一軒家に引っ越しました。ちょっとした 高級住宅地でしたが、当時は牧場もあるような山の中。幼稚園までバスで30 分はかかる距離にあり、私はそこで虫やカエルを 採ったりして遊ぶ、ごく普通の子供時代を過ごしました。
近くには大学が2 校あり、住んでいた家のまわりには大学生相手の下宿屋が多くありました。下宿している大学生たちにはよ く遊んでもらい、小学生の頃は彼らの部屋で音楽を聞いたりしていました。私は年上の人から可愛がられることが多いのです が、そうした下地はこの頃できたものかもしれません。
小学校時代はとにかくよく遊び、勉強が嫌いな子供でした。当時は勉強が将来何かの役に立つとは全く思っていませんでし た。とにかく父が厳しかったので、仕方なく勉強をし、中高一貫の私立校の受験をすることになりました。入学後は、受験勉強の 反動もあり、中間試験や期末試験の勉強は一切しませんでした。
元来の勉強嫌いに加えて、中学受験で勉強して入学したのに、どうしてまた勉強しなければならないんだ、と反発していたの です。高校に進んでも私の勉強嫌いは変わりませんでした。
私の父は戦後、台湾から引き揚げてきて、苦学して大学まで出た人でした。8 人兄弟の末っ子で、大学卒業後、電子機器の メーカーに入社し、結婚した母の実家の支援を得て独立。教育教材の販売で成功したのでした。
この起業家である父が、私に大きな影響を与えてくれた存在であることは間違いないでしょう。
父は、自分のやりたいことのために仕事をするという人でした。若い頃にアメリカ映画を見て憧れたことをすべて実現してや ろうと考えるような人だったのです。
大きな家、外車のオープンカー、世界一周などの海外旅行、飛行機の免許、クルーザー、週末のパーティーなど、父の趣味は 成り上がりといってしまえばそれまでですが、いろんな面で楽しむことを追い求める人であることは確かでした。
体も大きく、腕力もあって、性格も強引。朝の挨拶がきちんとできないと殴るような人で、私にとって父の存在は大きかったと 思います。その父の私への評価は、「お前は、学校の成績はよくないが、勘はいい」でした。
私には2 つ上の兄と、8 つ下の妹がいますが、兄は別の道を考えており、父の事業を継ぐのは次男の私ということが暗黙の了 解としてありました。そんなふうでしたから、私は自分の将来に向かって何の努力もせずに、安易に過ごしていたのです。今思う と恥ずかしい限りですが、この楽園のような環境がいずれ、父の事業の失敗で激変してしまおうとは、そのときは想像もしませ んでした。
大学生時代も私は、依然、安直に過ごしていました。しかし一方では、働いておカネを得ることが性に合っているというか、いろ んなアルバイトを経て、仕事の面白さに目覚めてきたのがこの頃です。学校ではなく、社会こそ自分のいるべき場所ではないか と思い始めていました。
大学卒業後、すぐには父の事業を継がず、不動産会社に就職し、営業の仕事に取り組みました。転職も1度経験し、他業界の 営業も経験してみました。
人生の転機が訪れたのは、2 つ目の会社に勤めていたときのことです。父が新しく英会話スクールの経営に乗り出し、私もそ れを手伝うことになったのです。ところが、バブル崩壊の影響もあり、スクール開校後、事業計画に狂いが生じてしまいました。資 金繰りが悪化し、経営は赤字に転落。父は自己破産寸前まで追い込まれたのです。
「これ以上持ちこたえるのは無理だ」と判断した父は、スクールの閉鎖を決意。私は買い取ってくれる相手を探しました。そし てその相手と交渉を重ねるうちに、今度は相手から「スクール経営はあなたに任せたい」という話をいただき、委託を受けるこ とになったのです。26歳のときのことです。
「自分がやるしかない」。そう決意した私は、赤字の英会話スクールの再建に奔走しました。
スクール経営のカギは、いかに効率的に生徒を募集できるかにかかっています。そうしたノウハウを知りたかった私は、成功し ている同業他社に就職しました。そしてそこで学んだことを、のちに自分の会社に活かしました。そこまでするのかと思われるか も知れませんが、なりふり構わず必死でした。/
また、経営や営業に関する本を寝る間も惜しんで読み、生徒を勧誘するコールセンターを設置するなど、考えついたありとあ らゆることを実行しました。
その結果、多くの生徒を集めることに成功し、収支も単月黒字に転換することに成功したのです。
しかしひとたび生徒が増えると、新たな問題が引き起こりました。生徒が増えすぎたため、教えたくても教えるスペースがな いのです。生徒からは、カリキュラムどおりにレッスンが受けられないとクレームが寄せられるようになりました。
私に英会話スクール経営を委託してくださった方は、「これ以上の生徒募集は必要ない、ほどほどの黒字が出ていればそれ でいい」という考え方でした。一方、私は営業という仕事にのめり込んでおり、ほどほどにという指示には従えなくなっていまし た。
英会話スクールを自分の思うように経営したいなら、もはや相手から買い戻すしか道はありません。もちろんそんな手持ち 資金は、どこにもありません。しかし私には、生徒募集の営業活動をするうちに思いついたアイデアがありました。
それは英会話スクール、ブライダル、自動車購入など、さまざまな分野のカタログを情報端末に集め、アクセスしてきた顧客 に無料でカタログを配布する代わりに、入手した顧客情報を企業に売りマーケティングに利用してもらうというものでした。
「いっそこのアイデアを事業化し、それでつくったおカネを、英会話スクールを買い戻す資金に充てればいい」と思ったので す。私はこの新規事業に夢中になりました。
新規事業にのめり込む私に対し、当時の経営パートナーが、ある日、スクール経営か、新規事業かどちらかにしてくれと忠告し てきました。新規事業の成功を疑わなかった私は、英会話スクールの経営をそのパートナーに譲り、会社を辞めることにしたの です。
当時の私は、こんなに素晴らしいアイデアなのだから、すぐに収入に結びつくはずだと意気軒昂でした。そのため、失業保険 を貰うこともなく、そのまま起業へと突き進んでいったのです。
その頃には、継ぐはずだった父の事業はなくなり、私には何も残っていませんでした。頼れるものは何もない。永らく父の存在 に甘えてきた私は、これが本当の「自立」だと思いました。
さまざまな情報が、1カ所で効率的に集められる。この素晴らしいアイデアを世の中に送り出したいという思いから起業に踏 み切りましたが、事はそう簡単には運びませんでした。まず、最初に立ちふさがったのが、資金の調達です。会社をつくろうにも 資本金がないのです。
会社づくりは1995 年から始め、友人などからのサポートを受けながら、事業計画を東京や大阪など多くの企業に持ち込み ました。おカネがないので、まずアイデアを買ってもらおうと思ったのです。
しかし、面白いとはいってくれるものの、おカネを出してくれてまで事業化するには至らない。そのうち、借金も膨れ上がり、家 族ともども居候していた父の家でも、「いい加減に目を覚ませ」となじられるようになりました。父からは、半年以内に出ていくと いう念書も書かされていました。まさか、実の息子を追い出しはしまいとタカをくくっていたのですが、父は本気でした。
そんなとき、中小企業創造活動促進法というベンチャー企業支援の施策があることを知りました。行政に認定されれば、担 保や保証人なしでも融資を受けられる。これで会社がつくれる! そう思った私は早速、ビジネスモデルを申請し、その半年後、 認定を受けることができました。喜び勇んで愛知県の保証協会に行くと、こういわれました。「ベンチャー企業はリスクが高い。 担保と保証人がなければダメです」
何のためのベンチャー企業支援か。そのための認定制度ではないかと、私は強く抗議しましたが、いくら言っても相手にして もらえません。すでに会社を辞めてから2 年。父に書かされた念書がちらつき、それまでには融資を受けられるはずだという目 算もはずれ、崖っぷちにいました。
あきらめのつかない私は通産省に出向き、時間をかけて認定を取ったのに、融資を受けられないのはおかしいと抗議を繰り 返しました。そこでわかったのは、結局、各都道府県の保証協会というのは独立採算制であること。愛知県でダメでも、ほかの都 道府県に行けば可能性があることを知りました。
それであれば、愛知県を出るしかありません。最初は岐阜や三重など名古屋周辺の県を考えましたが、どうせベンチャーをや るのであれば東京を目指すべきだと決意したのです。
このことを早速、妻に報告し、ヘソクリがいくらあるか聞きました。「百万円ある」といいます。よし、それで東京へ行こう。そうし て、私たち家族の東京での生活が始まりました。 妻とは英会話スクールの営業時代に知り合い、結婚しました。その当時はそこそこ羽振りがよかったものの、実家への居候の 次は、東京で6畳1間冷暖房なしの生活です。すでに2人目の子供も生まれ、1歳になっていました。
3 カ月後の家賃もなく、妻の実家から送ってもらったおコメに生卵をかけて食べる毎日。上の子は「マクドナルドに行きたい」 とせがみましたが、それすらも聞いてやれませんでした。そんな生活だったにもかかわらず、妻は「あなたなら必ず成功する!」と 言ってくれていました。不安や不満など弱音は決して口にはしませんでしたが、不安な毎日だったに違いありません。
そんなある日、偶然にもあるテレビ番組を見たことが私の運命を大きく変えました。人材派遣会社大手のパソナグループ代 表の南部靖之氏とソフトバンクの孫正義社長が若い起業家支援のため、ジャパン・インキュベーション・キャピタル(JIC)をつ くったというのです。
私は早速、JIC に事業計画書を送りました。それが幸運にも認められ、パソナ内に机を1つ置かせてもらえることになったので す。しかも、JIC やパソナの支援により、念願の融資を東京の保証協会から受けることが実現しました。1997 年3 月14日、ついに 会社を設立することができたのです。
起業を決意してから2年半。ようやく1人の起業家としてスタートラインに立つことができました。
会社設立後、私は自前のアイデアを実現するために、大手外食チェーン店へ端末設置の営業活動を続けていました。人が多 く集まり、スペースもある外食店なら可能性があると考えていたのです。
ある日、すでに取引がある相手を訪ねると、「同じような端末の企画をIBMが先日持ってきたよ」というではありませんか。私の アイデアが盗まれたかと、驚きました。2 年以上営業活動を続けてきて、ここでIBM のような大手企業に参入されたらひとたま りもありません。
でも、「ピンチはチャンス」
IBMに対抗するために私が考えたのは、IBMと戦うのではなく、無謀にもIBMに提携を申し込み、一緒に手を組んで事業を行 うことでした。IBM に端末を置いてもらい、私はコンテンツを提供することで、自分のやりたいサービスを実現すればよいのだと 思い直したのです。
発想の転換をすれば、ピンチは大きなチャンスになり得る。私はIBM に自分が考えたコンテンツをプレゼンテーションするこ とにしました。相手は大企業ですが、ひるんではいられません。
なにしろこの2 年以上、このアイデアについては、寝ても覚めても考え続けてきたのです。「私以上に知りつくしている人間はい ない」と、自信を持って臨みました。
それが「無料カタログ送付サービス」です。端末上にさまざまなカテゴリーのカタログが並び、企業はそれを資料請求した見 込み客の情報を収集できるという仕組みです。
ちょうどIBM側も端末を置いてさまざまな事業を展開したいと思っていたところで、非常に面白いといってくれたのです。
しかし、実現には課題がありました。まずは多くの業界から端末上に載せるクライアント企業を集めなければならず、それは 私の会社が集めることが条件となりました。それだけではありません。システム運用の開発費と利用料がかかるというのです。
開発費と利用料。IBMとの交渉で私に突きつけられたものも"、資金"でした。アイデアはあるのにカネはない。この状況は変 わってはいませんでした。
しかし、私は、まさにここが正念場と思い、システムが未完成であるにもかかわらず、先にコンテンツを集める営業を開始する ことにしました。代金は先払いという、こちらに非常に都合のいい話です。普通に考えたら不可能でしょうが、私は片っ端から企 業をまわり、営業活動を開始しました。
IBMはすでに端末を都内1000 店舗のコンビニエンスストアに設置済みということで、あとはこちらの欲するシステムを開発 するだけでスタートできる。そんな状態を、指を加えて見ているわけにはいかなかったのです。
電車代さえなかったので、地下鉄の2、3区間を歩くのは当たり前。靴は2カ月で穴が開きました。それでも当時の私は不思議 と気持ちだけは高揚していました。ボロボロになった靴を見て、自分の働きぶりをほめてやりたいくらいに思っていました。 ちょうどこの頃、前職の仲間と再会する機会がありました。私が今営業活動中でIBMと組むことを話すと、「自分もそのビジネ スを手伝いたい」と、部下2人を連れて事業に参加してくれることになりました。
私には当時、払える給料なんてありませんでした。出世払いにしてくれという話をしたら、それでいいということで、彼らも東京 へやってくることになりました。
新しく加わった仲間たちは1泊4000円ほどのビジネスホテルの1部屋を借り、そこで半年間を過ごしました。社員の食費は 私も含め、4人で1日1000円。死にものぐるいで営業し、カップラーメン、おにぎりでお腹を満たす毎日でした。
その甲斐あってか、何とか半年で約束の金額をIBM に支払うことができ、システムが完成しました。端末のカテゴリーには、 車、ブライダル、各種スクール、旅行、人材派遣など、さまざまな企業が並んでいます。
私は仲間を誘い、お祝いで外食することにしました。「今日は、カップに入っていないラーメンを食べに行こう」。店に入って、 チャーハンも頼もうとしたら、皆、びっくりです。「そんなに贅沢して、おカネは大丈夫ですか?」 この日食べたラーメンの味は忘れられないものになりました。
IBMとは1998 年1月にコンテンツパートナー契約を結び、私のアイデアである「無料カタログ送付サービス」は首都圏1000 店舗のコンビニで運用が開始されました。
翌1999年1月にはトヨタ自動車、本田技研工業をはじめ、全116社の参加を得て、約1億円の売上を計上。2月にはIBMより、本 年度最優秀コンテンツとして表彰を受けるオマケもつきました。
そのサービスを運用するなかで、私はあることに気がつきました。「無料カタログ送付サービス」のカテゴリーには派遣会社 も含まれているのですが、そこへのカタログ請求が多く、クライアントの予想を超える反響があったのです。
私は東京に出てきて以来、パソナ内に席を置いていたのですが、考えてみれば、人材派遣というものをほとんど知りませんで した。人材派遣会社で一番ニーズがあるのは、カタログの送付ではなく、じつは仕事情報の提供にあるということを知った私は、 早速実行してみることにしました。
カタログ送付サービスを開始してすぐの1998 年5月、「人材派遣お仕事情報サービス」というコンテンツを立ち上げました。 この広告手法に興味を持ってくれた大手の人材派遣会社が次々に参加してくれました。もちろん、お世話になったパソナさん にもご参加いただけました。これが現在の「はたらこねっと」の前身です。この頃ようやく渋谷区神宮前に自前のオフィスを持つ ことができました。
ほっとしたのも束の間、新たなる挑戦の波が押し寄せてきました。インターネットです。私は、早くからいずれこのサービスは ネットでも展開できると予想してきました。しかし、ここでも立ちはだかったのは"資金"でした。
じつはネット参入のための資金調達に関しては、すでにカタログ送付サービスの実績もあるため、融資を受けやすいと思って いました。しかし、銀行をはじめとする金融機関や助成金、ベンチャーキャピタルのいずれも、答えはノーでした。
日本で資金を得られないのであればと、私は海外に目を向けました。アメリカのシリコンバレーにあるインターナショナル・ ビジネス・インキュベーション(IBI、起業支援のための機関)に事務所を借り、アメリカの企業から資金を調達しようと思ったの です。
1999 年、シリコンバレーに渡った私は、投資家や企業回りを始めました。アイデアを話すと向こうも非常に興味を持ってくれ たのですが、アメリカのベンチャーキャピタルは、資金を出すだけでなく、一緒に事業を成長させる仕組みだったので、遠い日本 での起業には関われないといわれました。
アメリカで、もうダメなのかと思っていたちょうどそのとき、ソフトバンクの孫氏が中心になり、ナスダックを日本に誘致して新 しいベンチャーをどんどん誕生させるという発表を耳にしました。
これだ!と思った私はすぐさま帰国し、ナスダックジャパンの説明会に参加しました。1000人以上もの人が集まっていて、関心 の高さに驚きました。
そこで、投資家にプレゼンテーションできる機会が与えられました。当社のプレゼンは高く評価され、いろんなベンチャー キャピタルから問い合わせが寄せられました。実際に投資家も現れ、4億円もの資金が集まったのです。
「日本にもようやくベンチャー企業に投資できる環境が整ってきた」。そう思った私は、この事業は成功すると確信しました。
こうして2000年10月、求人広告業界初の、派遣情報ポータルサイト「はたらこねっと」が誕生したのです。
「はたらこねっと」のサービス開始と同時期に、7500 店舗あるローソンと交渉し、ローソンの端末「Loppi」での派遣会社の情 報提供サービスを開始しました。当時、自宅でのネットユーザーは全体の人口の20%程度といわれ、残り80%の人たちは自宅 でのネット環境がありませんでした。その人たちがローソンに行けば、ネットと同じ情報を得ることが出来るようにしたのです。 ネット事業は差別化が難しく、私はそこに差別化の道を見出しました。
当初は派遣情報と同時に不動産情報の提供も行いたいと考えていました。実際、大手の不動産会社が続々と集まり、こちら も将来有望なマーケットであると予想していました。
しかし、サービス開始直前の会議で、本当に利用者がいるのか? 収益が上がるのか? といった疑問が提出され、2 つ同時 に立ち上げるのではなく、どちらかに絞り込もうという判断がなされたのです。私としては結局、経験のある派遣情報に決めざ るを得ませんでした。
しかしこの判断は、結果的にはよかったと思っています。4 億円という資金を得ましたが、人材派遣情報サービスだけでも 思った以上の労力と資金が必要でした。1 つに絞り込んだおかげで、「はたらこねっと」はスタート時点から日本一の情報量を誇 るサイトとして開始することができたのです。
「選択と集中」は、その後も事業を続けてくなかで何度も遭遇しました。ネット事業に参入する際は「タイミング」の測り方がポ イントでしたが、課題に対しては正しく「選択」できることが会社経営で大切なことを学びました。
一方、ローソンと交渉を進めていくなかで、私たちが集めたこの膨大な派遣情報を、ポータルサイト最大手のヤフーでも提 供できないかと計画を進めていました。ヤフーとはIBMとコンテンツパートナーとして契約を結んだ1998年から接触を始めて いて、時間はかかりましたが2001年11月からアルバイト・請負情報を、翌2002年1月から派遣情報の提供をそれぞれ開始する ことができました。とくに派遣情報はディップの独占でした。
ヤフーとの業務提携は想像以上の効果をもたらしました。ヤフーの集客力は抜群で、アクセス数は一気に増え、新規クライ アント獲得のための営業もぐっと楽になりました。事業もここにきて急拡大した感がして、これまでの苦労が報われたと思いま した。
しかし、同時にいつまでもヤフーに頼っていてもいいのだろうか、という危機感が私には芽生えてきました。
ヤフー依存型のビジネスモデルからの脱却。それが次に私に与えられた課題でした。営業現場を見渡せば、社員たちは「ヤ フーに掲載できますよ」というトークでセールスをしています。まず、そうした現場の意識を変えることから始めました。
「われわれはヤフーの営業代理店じゃない。自信をもって自社ブランドを売ろう! ディップとして自立しよう」と言い続けたの です。
営業現場の意識改革と同時に、ユーザーの満足度を高めながら、ディップの知名度を上げる自社ブランディングに取りかか りました。2003 年6 月、女優の広末涼子さんをイメージキャラクターとした「ディップ ブランド戦略発表会」を記者発表。バ ナー広告から、新聞、雑誌、交通広告までさまざまなメディアミックスを利用し、広末さんの知名度を借りながら、ディップの知名 度を上げる戦略です。
ちょうどその頃、ディップは会社設立当時からの念願だった東証マザーズへの株式公開を控えていました。2003 年末には すべての手続きが終わり、株価も決まり、株式の販売も終了していました。
そこへ何と、ヤフーの事業部長から突然、「提携解消を発表する」との電話です。こともあろうか、上場の3 日前でした。頭の中 が真っ白になりました。
株式公開直前に、ヤフーからの突然の提携解消の発表。
「どういうことですか!」 主幹事証券会社の担当者が血相を変えてやってきました。
「ヤフーとの提携解消のリスクは、目論見書には書いてある。このまま上場できないことはないが、ヤフーとの提携があることを 前提で買った人から信用を失った状態で市場に出ることになる」というのです。私は、「それでは辞退します」と答えるのが精一 杯でした。
株式公開の日には東京湾で上場を祝ったクルーズパーティーを予定していました。本来であれば当然、中止でしょう。しかし それまで止めてしまったら、ヤフーとの提携解消ショックと重なり、社員の士気は大いに下がるはず。私はあえてパーティーをや り、「ヤフーがなくなっても大丈夫なこと、そのための準備はしてあることを皆にきちんと説明しよう」と思いました。いわば、ヤ フーからの卒業パーティーです。
きちんと説明すると、私の予想を裏切るほど皆の士気は上がりました。
「ヤフーがなくなった今こそ、自分たちの実力の見せどころだ!」と、パーティーは大いに盛り上がったのです。そのとき、全員でベ イブリッジに向かって再チャレンジを誓いました。
投資家保護のためにマザーズへの株式公開を延期したことは、逆に投資家から信頼を得ることにつながりました。社内も船 上パーティーの勢いのまま一致団結し、攻めの営業を続け、業績も落ちることはありませんでした。
株式公開を辞退してから最短の5カ月後、2004年5月、ディップは東証マザーズへの上場を果たしました。
ヤフーとの提携、そして解消。上場辞退、そして念願の上場へ。「ピンチはチャンス」これは私の体験的持論ですが、しかし逆に チャンスのときにも、ピンチを想定し備えておかねばならない。このときの経験で私はまた1つ、大きな教訓を得ることができま した。
ここで少しディップの展開しているサイトの話をしておきましょう。じつは「バイトルドットコム」は、ある格闘技のイベントを きっかけに生まれました。
「はたらこねっと」を始めて多くの派遣会社に営業活動をしていた頃、派遣会社とは別に請負会社というのがあることを知り ました。こちらは人材ビジネスに参入したてで素人同然だったのですが、派遣会社側から、請負会社と派遣会社は違うので、派 遣の仕事情報と一緒にされては困るという話があったのです。
それならばということで、請負はアルバイト情報というかたちで分けてやることにしました。いずれはアルバイトのサイトとし て分離独立させようと、そのタイミングを測ることにしたのです。
そんなある日、「Dynamite!!」という当時最大の格闘技イベントで、コーナーポストのスポンサー枠に急きょ空きができたと いう連絡がありました。 これはアルバイト層に訴えるチャンスだと思った私はその枠を買い、一晩考えて「バイトル」というサイト名を考えました。バ イト情報と格闘技(バトル)の造語です。まだサイトはオープンしていませんでしたが、とりあえず「Coming Soon」として入り口 のページだけつくり、広告を先に出すことにしたのです。これが現在の「バイトルドットコム」誕生のきっかけです。
一方、上場して参入したかった領域が中途採用の市場でした。転職情報というのはユーザーのニーズも高く、マーケットとし て非常に魅力的なのですが、求人数が少なく、当社の営業社員の数からいって、何百社もと契約を結ぶのは不可能と判断して いたのです。
そんなとき、あるビジネス雑誌で「ジョブエンジン」というビジネスモデルを知り、衝撃を受けました。ロボット型の検索エンジ ンが自動的に企業の転職情報を収集してくれるのです。これなら、求人情報数をライバル企業よりも多く集めることができる と思った私は、「ジョブエンジン」を提供していた求人サービス株式会社と手を結び、完全子会社化することで、2004 年10 月 「ジョブエンジン」のサービスをディップで展開できるようにしたのです。
2004年5月に上場したとき社員は80人ほどでしたが、2005年から本格的に中途採用と新卒採用を始めました。会社にお いても、事業においても、成長するための「基本は人」と考えていたからです。また、事業と人が急激に拡大するなかでの組織づ くりも急務となっていました。小規模であれば私1人で全体を見ることも可能でしたが、人数が増えるにしたがって、組織をマネ ジメントできる人材を多く募集しなければならなくなったのです。
そこで大きかったのが、現在、代表取締役副社長兼COO を務めてくれている大友常世さんとの出会いです。私は、年々拡大 する組織に対し、私の代わりに現場を取り仕切ってくれるパートナーが欲しいと強く感じるようになっていました。人材紹介会 社に問い合わせ、適任者を探し始めましたが、なかなか思うような人とめぐり会えません。
そんな頃です。"大友常世"という人物の話を聞き、会って一目で理想の人であることがわかりました。前職でもすごい経歴の 持ち主です。組織運営のプロでした。仕事の鬼とも聞いていましたが、実際に会った大友さんは、物腰の柔らかい、笑みを絶やさ ぬ人物でした。
「日本一、従業員満足度の高い会社をつくりたい」という想いで強く共感し合え、この人物なら現場を任せられると確信しま した。
当時の大友さんは、周りの人から「君はベンチャー企業の社長とは合わないから、やめておけ」と言われていたそうです。彼は 私を「独断的なIT ベンチャーの経営者だったらどうしよう」と考えていたらしいのですが、そうではなかったので、やっていけそう だと思ったそうです。私は、自分で何でもやりたがるベンチャー経営者にありがちなタイプではなく、むしろ優秀な人材を集め て、その人に活躍してもらいたいタイプなので、うまくいっているのだと思います。その大友さんが現場に密着して、率先して 引っ張ってきたからこそ、現在、800人もの人数の組織を安定して維持できているのだと大変感謝しているのです。
2006 年からは一気にサイトの宣伝攻勢をかけました。ディップ初のテレビCM を「バイトルドットコム」で実施し、自社キャラ クター"バイトルズ"を開発。2008 年からは女優の上戸彩さんをイメージキャラクターに起用しました。「はたらこねっと」では 2007年に女優・篠原涼子さんを起用するとともに、自社キャラクター"はたらこねこ"が活躍中です。
これらはディップの知名度向上とともに、ブランドイメージの構築に大いに貢献してくれています。そして2008 年には残る 「ジョブエンジン」でも新キャラクター"ジョブ猿人"が登場。広告活動も積極的に展開し、東京、大阪、名古屋など都市部では、街 に出ても、テレビをつけても、ディップの広告が頻繁に見られるようになりました。
一方、商品も次々と開発してきました。 「はたらこねっと」「バイトルドットコム」の携帯版を2003 年に開始し、3つのキャリアすべてにおいて情報提供しています。最新 の技術も貪欲に吸収し、「バイトルドットコム」はGPSによる位置情報サービスを業界に先駆けて搭載しました。
パソコン版の「はたらこねっと」「バイトルドットコム」についてはそのつどリニューアルを重ね、ユーザー満足度の向上に努め ています。その結果、「バイトルドットコム」は、パソコンと携帯を対象にしたゴメス社のアルバイト情報サイトランキングで、総合 第1位をダブル受賞。ネットエイジア社のモバイル利用実態調査でもユーザー認知度、応募就業率、サイト応募率において第1 位という快挙を成し遂げました。また、「はたらこねっと」においても、ネットエイジア社の同調査で、ユーザー認知度、応募就業率 ともに第1位という評価をいただいています。
会社設立から11年。ディップの事業は、確実に成長してくれています。
2008年8月28日、私は六本木ヒルズ内にある、ホテルの華やかな会場に立っていました。
この日は、当社が開催している「第2回 はたらこねっと キャッチ・ザ・ドリームコンテスト」の授賞式。夢や目標を持ち、その実 現に向けて頑張っている派遣スタッフへ、応援資金として200万円を提供しようという企画です。
プレゼンターはディップのイメージキャラクターである女優の篠原涼子さん。公の場には2007 年11 月以来の登場とあっ て、たくさんのマスコミが押し寄せました。
その日、私は11年前の会社設立時の苦労話を紹介しながら、「大きな夢をかなえるためには、多くの人の協力なしでは成し得 ない。とくにその夢が社会にとって必要なもので、人を幸せにする仕事なら、たくさんの人の協力を得られるチャンスがある」と 話をさせていただきました。
「夢をかなえる仕事に出会おう」
私が5年前に考えたこの企業メッセージは、仕事を通じてさまざまな目標を達成できた私の実感です。
私たちの仕事は求人情報の提供です。たくさんの人に自分に合った仕事と出会ってもらい、それにより自分の夢を実現して ほしい。そのお手伝いをさせていただいて会社が成長するなら、こんなに嬉しいことはありません。
「はたらこねっと キャッチ・ザ・ドリームコンテスト」は、私たちの事業の意義を多くの人に知っていただくための、1 つの例で す。当社は今、「Go Major!」をスローガンにしていますが、こうした社会貢献もメジャーカンパニーに求められる要件だと考え ています。
当社の事業は求人情報の提供ですが、ユーザーが求める情報の種類は多岐にわたっています。そのため当社では「マス マーケティング」ではなく、まず、ユーザー1人ひとりの希望を満たしていくことが、第一の使命だと考えています。
当社の使命は、仕事を探している人へ、どこよりも豊富に、良質な求人情報を素早く提供すること。
そのため当社のサイトはすべてにおいて、掲載企業数、ユーザー数、そしてそれぞれの満足度においてNo.1 のサイトとなる ことを目指しています。
創業から上場までの草創期は、資金調達と事業の立ち上げに粉骨砕身し、ネット求人事業への参入を果たしました。起業前 からの大きな目標であった会社を上場させることを実現したステージでもありました。次の成長期・拡大期はサイトによる収益 基盤を構築し、売上高100 億円を達成するとともに、上場企業に相応しい規模と組織にディップを育て上げることができたス テージになりました。 そしてこれからは「Go Major!」宣言にのっとり、メジャーカンパニーに脱皮するために、高収益の実現や新規事業への参入、 そして社員数1000人規模への拡大を目指しています。
具体的には、当社はこれまで、派遣・アルバイト・中途採用といった人材サービスを手がけてきましたが、これまでなかった「新 卒採用事業」を始める予定です。
また、ワーキングマザーに特化した派遣求人情報サイトでは業界初となる「はたらこママ派遣」というサービスを2008 年7 月から開始しました。子育て中の女性をターゲットとし、仕事と家庭を両立させようとする女性にマッチした仕事情報を提供し ています。 ディップはこれからも、新しい挑戦を続けていく企業でありたいと考えています。
ゼロから始めた当社も、800 人(2008 年10 月現在)を超える大所帯となりました。しかし、これだけ大きな組織になると、私 の考えや会社の方向性を正確に伝えることがだんだん難しくなってきたのも事実です。
昔ならフロアを見渡せば、全員の顔を見ることができました。しかし、今は本社内にはいくつもの部署があり、全国には5 つの 支社があります。そこへ私の思いを伝えるにはどうすればいいのか。その1 つの対策として各種の社内報を頻繁に出し、支社と はテレビ会議ができるように環境を整えました。
私が最も重要と考えているのが、創業時の「志」の共有です。この「志」、いわばディップの"心"とでもいうべきファウンダーズ スピリットの継承は、漫然と過ごしていては身につけることもできないし、外部の研修機関に委託することもできないのです。
ディップではマネジャー以上の管理職に、私が考えた「リーダーの誓い」を記した盾を渡す慣例があります。それに記されて いるのが以下の言葉です。
「ドリーム=自ら夢を持ち、語り、夢の実現に努力する。私は決して途中で諦めない」
「アイデア=アイデアは成長、発展の源である。個性を尊重し、自由闊達な社風をつくり、イノベーターとして社会と企業の発展 に貢献する」
「パッション=まず自らが熱くなり、周りを熱くする。惜しげなく誉め、共に喜び、悩み、励まし、語り合う。チームワークとリーダーシッ プで一致団結して勝利を勝ち取る」
私の想いはこの3つに集約されているといってもいいでしょう。
上場から4年が経過し、売上は公開前の約5倍、従業員数も約10 倍となり大きな成長を成し遂げましたが、これからもこの 「志」を全社員で共有・継承していくことができれば、「顧客支持率No.1」、「従業員満足度No.1」、「高い成長性と収益性」、「社会 からの信頼と評価」を兼ね備えた真のメジャーカンパニーを必ず実現できると思っています。